1960年代半ばすぎから70年代初頭に静岡を拠点に活動した前衛美術のグループ「幻触」は、長い間美術界で語られることがほとんどなかった。しかし近年、いくつかの角度から光が当てられ、にわかに評価が高まっている。

忘れられていたのには、いくつかの理由が考えられる。中でも、彼らを支えた美術批評家・石子順造が早々に亡くなったのは大きかった。石子はサブカルチャーと美術との接続や、文化人類学的視点をいち早く取り入れるなど、先駆的な仕事を残した。美術批評家としては例外的にマンガ家・つげ義春や宗教学者・中沢新一との交流も早くからあった。石子の再評価と相前後して幻触に注目が集まるのは自然なことだ。

今後は幻触が残した足跡を通じ、彼らの独自性にこそ焦点が絞られていく必要がある。戦後美術の理解で、幻触が依然、それに続く「もの派」誕生前夜の一幕として語られているなら、なおさらだろう。そのためには幻触の構成員一人ひとりの活動を改めて精査し直すことが必須だ。私自身、個人的に交流のあった鈴木慶則小池一誠(いずれも故人)については作品に触れ、文章も書いてきた。

だが、本展で見る作品はどれも初見ばかりで、新鮮な驚きを感じた。飯田は昨秋、91歳でその生涯を閉じた。本展には没後、スタジオから発掘されたものを中心に20点以上が並ぶ。長さが26メートルに及ぶ大作もあり、ちょっとした回顧展だ。

半世紀以上に及ぶ軌跡を見ると、幻触での役割として多くの発見がある。飯田は物質的な実体としての作品概念が、鏡を使った表象を通じ、実体のない仮象も含め、同等の見る体験として置き換えうることを、はっきりと示していた。石子批評の影響下で語られてきた幻触だが、飯田が先導した芸術運動としての側面もも大きかったのではないか。

中でもひときわ目を引くのが、黒く塗られたパネルに白い文字で「MAY.2978」とだけ描かれた日付絵画だ。正確な制作年は不明(1964-65?)だが、現代美術に少しでも通じた者なら、即座に河原温の代表作「日付絵画」を連想するだろう。

両者の間に何らかの影響関係があったのか、現時点では何も分かっていない。だが、日付を描く行為自体は、個人の着想にとどまらない普遍性がある。飯田が河原とは別にこの連作にたどり着いたとしても不思議ではない。ただし、河原の描く日付が日記的なのに対し、飯田が画面に作刻んだ西暦は遠い未来に設定されている。それだけでもコンセプト上の相違は明確だ。

新たに発掘された飯田作品を見ていると、この美術家の射程は、幻触やもの派をも超えて、極めて独自なものであった余地が浮かんでくる。

(さわらぎ のい・美術評論家)

Iida Shoji MAY.2978
飯田昭二 MAY.2978

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